2025/05/12 TOPICS
また川崎か、と思ったあなたへ──川崎生まれの弁護士が感じる違和感
2025年4月、川崎市で発生したストーカー殺人事件が大きく報道された。ニュース速報、ワイドショー、SNSのトレンド──どこを見ても「川崎」という地名が繰り返され、「またか」「やっぱり川崎は…」という反応があふれた。
私はそのたびに、胸の奥がざらつくような違和感を覚える。
私は川崎で生まれ育った。そして今、弁護士として神奈川県内で仕事をしている。事件は確かに悲劇だ。しかし、その悲劇を“地名ごと”に消費するような社会の空気に、どうしても引っかかってしまう。
なぜ「川崎」がここまで叩かれるのか
事件は東京でも大阪でも起きる。凶悪犯罪はどこの都市にもある。それなのに、なぜ川崎だけが「異常な場所」として語られるのか。
川崎という街は、東京と横浜の間にある、どこか“あいまい”な都市だ。工業地帯とタワマン、下町と再開発、外国人コミュニティと昔ながらの商店街──多様性が同居する街。
だからこそ人は、この街に「異常」を押し込めて、自分の住む場所の“正常さ”を保とうとするのではないか。
「また川崎か」には、ほんの少しの安心が混じっている。異常なことが、異常な場所で起きた。それなら、自分には関係ない──と。
地名でラベルを貼ることの暴力性
川崎。足立区。西成。北九州。
事件や社会問題が起きるたびに、私たちは“土地の名前”を象徴化する。地名がラベルになり、人が記号になる。
だがその瞬間、そこに生きている人々の姿は消えてしまう。
ネタ化され、ミーム化され、語感の強さだけで“怖い街”“終わってる街”として語られる。
本当に怖いのは、地名を使って誰かを遠ざけ、安心するというこの構造そのものではないか。
川崎に生きる人たちの姿を、私は知っている
私は弁護士として、川崎で暮らす多くの人と接してきた。誰もが大変な中で、子どもを育て、働き、地域で声をかけ合いながら生きている。
何も起きない日々の方が、ずっと多い。
だがニュースに取り上げられるのは、ほんの一部の“事件として消費される川崎”だけだ。
川崎は、記号ではない。街には日常があり、名前のない努力がある。
最後に
「また川崎か」と思ったあなたへ。
その言葉の中に、どこかで“自分の場所ではない”という安堵がなかったか。
だがその一言が、誰かのふつうの暮らしを切り捨てているかもしれない。
事件が起きるたび、どこかの街が“便利な悪役”にされる。
川崎は、その役回りを押しつけられ続けている。
だから私は、川崎という街がまた誰かの安心の引き換えにされるたびに、声を上げておきたいと思う。
川崎には、ニュースにはならない日々がある。
それを知っている人間として、ただ黙ってはいられなかった。