2025/07/08 時事・雑感コラム
“本物”が“偽物”になった日──贋作と信用経済の脆さ
“本物”が“偽物”になった日──贋作と信用経済の脆さ
1999年、徳島県立近代美術館が、ジャン・メッツァンジェというフランスの画家の作品として、油絵《自転車乗り》をおよそ6,720万円で購入しました。構図も色合いも美しく、20年以上にわたって“本物”として展示されてきたそうです。
ところが2024年末、ドイツ警察の情報などをもとに再調査したところ、なんとこれが贋作だったことが判明します。描いたのは、かつて世界中に贋作をばらまいたことで有名なドイツのベルトラッキ氏。つまり、まったくの別人の手による作品だったのです。
ニュースでは、「税金の無駄だ」「なぜ見抜けなかったのか」といった声が多く見られました。でも、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。
絵の見た目は、何も変わっていない。
でも、「誰が描いたか」が違っていたことがわかっただけで、価値がゼロになるって…どういうことなんでしょう?
絵の価値って、結局“ラベル”なんじゃないか
美術品の価値って、「うまいかどうか」「綺麗かどうか」だけじゃ決まらないんですね。むしろ重要なのは、「誰が描いたか」「いつ描かれたか」「どんな来歴があるか」といった“物語”や“ラベル”の部分です。
つまり、絵そのものじゃなくて、「それが何か」という意味づけのほうにお金を払っているわけです。
贋作がバレた途端に値段が吹き飛ぶのも、そういった“信用”が崩れるからです。信用がなくなれば、たとえ物は同じでも、価値は一気にゼロになる。それが今のアート市場の現実です。
信用でできている社会と、“本質”の逆転
でも、よく考えてみれば、これって美術の世界だけじゃありません。高級腕時計、ヴィンテージワイン、有名ブランドのバッグ、NFT……どれも「中身そのもの」より、「どこで買ったか」「誰のサインがあるか」「本物らしいかどうか」で評価が決まっています。
つまり、現代社会って「実物」よりも「物語」や「ラベル」によって価値が生まれる仕組みになっているんですよね。
それって、ちょっと怖くないですか?
評論家の“後出しジャンケン”と、目利きの崩壊
今回の件で、贋作と分かったあとに「前から違和感はあった」なんて言い出した評論家もいました。でも、それまでは「名作だ」と絶賛していたわけです。
こういう話を聞くと、「本当に“絵の中身”を見ていたのか? それとも“誰の作品か”という先入観で語っていただけなのか?」と疑いたくなりますよね。
アートの世界って、見た目より「この人が描いた」という“物語”が先にあって、それに合わせて評価されているところがある。今回の件で、それがよく見えてしまいました。
弁護士の仕事も“信用”で回っている
弁護士の立場から見ても、信用ってものすごく大きな意味を持っています。
契約書だって、ただ紙に書かれている内容だけじゃなくて、「誰が作ったか」「誰がサインしたか」といった形式が整っていることで信用されている部分があります。
でも、形式が整っていても中身が伴っていなければ、トラブルになる。だからこそ、私たちは「信用に依存しすぎない姿勢」を持っておかないといけないなと、あらためて感じます。
“本物らしく見えるもの”を信じすぎてないか
誰も気づかなかったし、むしろ「本物」と信じられていた間は、多くの人がその絵を褒めていました。それって、見た目だけで十分に価値があったということでもあるんですよね。
なのに、贋作とわかった瞬間に「ゴミ扱い」。
これって、「中身」より「肩書」や「ブランド」に人が支配されている証拠だと思います。
私たちは本当に“本物”を見ようとしているのでしょうか?
それとも、“本物っぽく見えるもの”を信じて安心したいだけなのかもしれません。
実は、破産や浪費とも似た構造があります
この事件を知ったとき、破産相談のときに見かけるある傾向を思い出しました。
ブランド物、タワマン、輸入車、海外旅行……。
それらが「本当に欲しかったもの」ではなく、「他人にどう見えるか」を意識して選ばれた結果だったこともあります。
でも、借金が増えて首が回らなくなったとき、
残っていたのは“見た目の立派さ”だけで、中身の生活はボロボロでした。
絵画の価値も、浪費の後悔も、
「中身よりもラベルを信じてしまった」結果だと思うと、同じ構造が見えてくる気がします。
最後に──ラベルじゃなく“中身”を見るということ
私たちは、見た目やブランド、肩書き、他人の評価といった“外側”の情報に、つい影響されてしまいます。
でも、本当にそれでいいのでしょうか?
ラベルに振り回されず、「中身を自分の目で確かめる」という姿勢を持つこと。
贋作事件は、それを問いかけてくれている気がします。